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葬儀の歴史と時代によるその変遷

焼香

Contents

1.人類の葬儀の起源

焼香

死について考える動物、埋葬を行う動物、葬儀を行う動物。
地球上に多くの種類の動物が存在していますが、仲間の死に対してどのように捉えているのでしょうか。
高度な知能を持つ動物の一部は仲間の死を悼むことがあります。
例えば、サル、ゾウ、ウマなど社会生活を営む動物の中に仲間の死を悼む行動が見られます。
しかし、仲間の死を悼む動物はいても、仲間を埋葬する動物は少ないです。
最近の研究では、一部の動物が仲間の遺骸を埋葬しているという研究結果が出ています。
鳥類の一部やゾウなどが、死んでしまった遺骸を草木などで覆い埋葬しているという報告があります。
またイヌやネコなどが仲間の遺骸を土に穴を掘って埋めているという光景も見られています。
 しかし葬儀となるとどうでしょう。
葬儀というのは、死者に関係する仲間が集まり、その死を悼むために何らかの決まった形式の儀式を行うことです。
この行動を行う動物は人間だけです。
それゆえ、葬儀は人間という種のアイデンティティのひとつと言えるでしょう。

最古の埋葬

葬儀を行っていたと考えられる現在最古の発見は、ネアンデルタール人によるものでした。
現在から6万年ほど前、ネアンデルタール人が仲間の遺体のそばに花を供えているという跡が発見されました。
正確に言うならば、発見されたのはネアンデルタール人の遺体の化石とその横から発見された花の花粉の化石でした。
その花は当時の自然状況から鑑みるに、そこに自生していた可能性はありません。
自然現象としてそこに運ばれた可能性は極めて低い。
そのため、ネアンデルタール人は仲間の遺体に対してわざわざ洞窟の外から花を持ってきて置いた、
ということが結論づけられました。
そのため、仲間の死を悼み、葬儀として供花を行っていたのでは、と考える研究者もでてきました。

日本の埋葬の起源

日本における埋葬の起源は、今から約1万年前の縄文時代にさかのぼります。
原始時代の日本での埋葬方法は屈葬です。屈葬というのは死者の手足を折り曲げた状態で穴を掘り、埋葬するというものです。
場合によってはその遺体に岩石を抱かせているものもありました。
いまだになぜ原始時代の日本人がこの方法で埋葬したのか理由はわかっていません。
穴を掘る労力を省くため、死者の霊が悪さをするのを防ぐため、
死者がよみがえってくるのを防ぐため、など様々な推測がされています。
のちに時代が進んでいくにつれて土葬の形態は世界的にみても一般的な埋葬方法である、
寝転がった姿勢での埋葬、伸展葬に変化していきます。

2.神話と人類共通の死に対する認識

焼香

葬儀というものがどのように変化していくのかをみていく前に、
なぜ埋葬が行われるようになったのかということについて、世界各地の神話の共通点から見てみましょう。
大抵の場合埋葬が行われるようになった背景のひとつとして死者の腐敗という問題があります。
生き物は生きている間は免疫システムが働いているため、微生物の分解作用が起こりません。
しかし一旦その生命活動が失われると免疫システムの停止によって、有機化合物の分解、つまり腐敗が始まります。
「古事記」記述にありますイザナミの死後の変化などを鑑みるに、
古代の人間というのはその免疫システムのことについて理解はしていませんでしたが、
生き物が死ねば腐敗していくという普遍の原理は理解していたようです。

古事記における腐敗の描写

「古事記」にあるこのイザナミの死についての神話をお話します。
兄妹神であるイザナギとイザナミは日本を誕生させる神話に登場します。
兄妹である彼らは様々な八百万の神を生み出すために結婚をしました。
「古事記」における「神産み」のくだりです。
そして、妹であるイザナミは色々なものを司る神を出産していきました。
火の神であるカグヅチノカミを出産する際に、イザナミはその火に焼かれ死亡しました。
そのときにイザナミの死体から五穀や桑、蚕の神が生まれました。
その後、黄泉の国にイザナミを探しに行ったイザナギですが、
すでに黄泉の世界の住人となってしまったイザナミの全身は腐敗しており、
それを見てイザナギは逃げ出します。
つまり「古事記」が書かれた段階で生き物は死ぬと腐敗してしまう。
そしてその腐敗というものは忌むべきものであるという考えがあったのでしょう。

海外における腐敗の描写の例

他の例を挙げるのなら、中東の英雄ギルガメッシュの逸話にも同様の腐敗のくだりがあります。親友の死を嘆いたギルガメッシュはその親友の遺体を前に一週間泣き伏します。しかし、その親友の遺体が腐敗していくのを見て深い悲しみの中、その遺体を埋葬するのです。同様の逸話が世界中の神話や伝説にあります。つまり人間の根源的な感覚として、腐敗していくものに対する恐怖があるのです。そのため、死体を埋葬するというのはその根源的な恐怖を解消し、死者に対する敬意を示す儀式になったのです。

土を介した生と死の信仰

そして同様に、生き物が土に還るという行為が大地を肥し、
植物が成長していくうえでの恵みになっているということも埋葬をするという理由のひとつになっていたのかもしれません。
エジプト神話のオシリスや中東地域の農耕神は、ときおりあの世を司る神でもあることがあります。
つまりは、生き物の命を奪い腐敗させる神は、土という媒介を通して農業的な恵みを人間に与える神でもあったのです。
もちろん日本の神話におけるイザナミはその自らの死の際に日本人の食生活に欠かすことのできない五穀を産み落とし、
その死後には人間を土に還す冥府の神となるのです。
人間はその原始から古代にかけての歴史の中で、
この食物連鎖の過程の中に神を見出しそしてそこに信仰と埋葬を生み出したのでしょう。

3.第一の葬儀の形式の大きな変化 中世、鎌倉時代

焼香

原始時代には単純な埋葬でしかなかった葬儀の形式はその後少しずつ姿を変えていきます。
日本の歴史上で有名なお墓といえば、多くの古墳が挙げられます。
権力者による巨大な墳墓は世界中に見られますが、古墳は日本におけるそのひとつと言えます。
しかし、葬儀や埋葬の形ということを考えるならば、むしろ庶民の方法の変化に着目すべきでしょう。
そういった権力者の埋葬方法はあくまで例外的であり、その時代の文化やライフスタイルを反映しているとは言いがたいからです。

庶民の宗教観を大きく変えた鎌倉仏教

日本における庶民の葬儀の形態は、平安時代まで大きく変化はしませんでした。
農耕が始まった頃から続く、伸展葬で土葬という形が続けられてきました。
大きな変化が見られるのは鎌倉時代です。
鎌倉時代と言えば、それまでの貴族による為政の時代が終わり、武士による封建制度が始まった時代でした。
その時代が我々に残した大きな文化として、鎌倉仏教があります。
法然が起こした浄土宗、親鸞が起こした浄土真宗、一遍が起こした時宗、日蓮が起こした日蓮宗、栄西が起こした臨済宗、道元が起こした曹洞宗の六宗です。
現在、葬儀を行うときの宗派は大抵の場合この鎌倉仏教に基づくものです。
もちろん奈良に都があったころから仏教は大陸から伝えられていました。
しかし、それは庶民のためのものではなく、上流階級のための宗教であり、庶民には信仰が難しいものでした。
その反対に鎌倉仏教は庶民に受け入れ易い内容を庶民に信仰可能な形式にしたため、民間に爆発的に普及していきました。
そのためその仏教の影響から、鎌倉時代には現代の葬儀と同じ作法が見られます。
大きなものを挙げるとすれば、湯灌、火葬、拾骨です。

鎌倉時代に見る現代に繋がる葬儀作法

湯灌とは死者の体を納棺するまえに湯水で洗い清める作法です。
火葬、拾骨に関して説明は必要ないかと思います。
これらの現代の葬儀の作法に通じるものが今から700年以上も前から続いていると思うと驚きを感じるのではないでしょうか。
またこの時代には線香を挙げるという風習もすでに見ることができます。
お通夜に寝ずの番をして線香と火を絶やさないようにする風習もすでにあったそうです。
その意味合いとしては、線香は死者の魂にとって食料のようなものであるという説や線香と火を絶やさないのは死体に近づく魔や邪を退けるためであったという考えもあります。
実用的な考えとしては、葬儀が終わるまでの獣除けや腐臭を防ぐための目的であったのではと考えることもできます。

4.現在に残る多くの作法が生み出された第二の転換期 
近世、江戸時代

焼香

江戸時代には現代にも残る多くの作法があったことが記録に残っています。
ここでは現代にまで続く葬儀の作法がどのような由来から来ているのかということを見ていきましょう。

北枕

一般的に知られている風習として北枕という言葉があります。
死者の遺体は頭を北に向けて横たえる。
反対に生きている人間の頭を北に向けて眠るのは縁起が悪い。
このような風習を知っている人はかなりの割合を占めるはずです。
現在でも眠るときに頭がどちらの方角を向いているか確認し、北は避けるという人も少なくないはずです。
この風習がどのような説話からきているのか知っている人は多くないはずです。
 一番大きな影響として考えられるのは、釈迦の入滅の説話からでしょう。
釈迦が沙羅双樹の下でその生涯を終え入滅したことはかなり有名な話なので知っている人も多いと思います。
そのときの釈迦の横たわる姿は「頭北面西」と言われ、頭は北向きに横たえられ、その顔は西向きだったそうです。
この説話から、亡くなった方を仏様と呼び悼む日本人も、
亡くなった方の頭を北向きに向けるようになったのではないかと言われています。
 逆に北枕で寝るのは、死んだ人と同じだから縁起が悪いと考えたのでしょう。
また、古代中国では、北という方角は死を司る方角でもあったそうです。
そのことを示す中国の道教の昔話をひとつお話します。あるところにとても有名な占い師がいました。
その占い師の実力は時の権力者すらその実力を認め、今後の国の趨勢を占ってもらうほどでした。
その占い師が農村を歩いていたところ、ある若者に出会いました。
占い師はその若者の顔をじっと見ると、その若者に年齢を尋ねました。
その若者の答えは十九歳であるということでした。
その占い師は、その若者に、あと数日の命であることを告げました。
その若者は驚き、そして父親とともにその占い師になんとかできないかと頼み込みました。
あまりに熱心に頼み込むので占い師はこう答えました。
明日南の山に行き、そこにある大きな木の下で碁を打っている二人組を探しなさい、
そしてその二人に黙って干し肉とお酒を差し出しなさい、と。
あくる朝、その若者は干し肉とお酒を持って南の山に行きました。
そして大きな木の下で碁を打っている二人組みを見つけました。
若者は占い師に言われたとおりに干し肉と酒を差し出しそのまま碁が終わるのを待っていました。
二人組は碁に夢中で、そのまま差し出された干し肉と酒を平らげました。
碁が終わり、その二人は若者に気がつきました。
一人は怒鳴りましたが、もう一人は、干し肉とお酒を平らげてしまったのだからなんとかしてやらねば、と言いました。
そのうちの一人が懐から巻物を取り出し若者の名前を探しました。
そこには寿命十九歳と書かれていました。二人はその十九という文字の前に九を書き足しました。
そうして若者の寿命は延びたのでした。このとき碁をしていた二人は北斗の神と南斗の神だったのです。
道教における北斗の神は死を司る神です。
そのため、そちらに頭を差し出すということは死を意味することになります。
そうした説話から日本では北枕を忌むようになったという説があります。

守り刀

お通夜のときなどに故人の懐に、刃物を持たせるという習慣です。
これも神道由来の風習で、死者が魔や邪などの忌むべきものに憑かれないよう刃物を持たせて守るという習慣です。
また、それに似た習慣として、お通夜や葬儀の際に妊娠している女性の腹部に、
衣服の内側に剃刀を入れておくという習慣も地方によってはあるそうです。

振り塩 仮門 三回まわし

お通夜や告別式から帰ってきたときや、火葬場から帰ってきたときに、家の前で塩を振ることがあります。塩というのは神道において祓いを行う道具です。腐敗というものが多くの宗教において忌むべきものだとされていることは先に挙げたとおりです。塩はその腐敗を遅らせ、死骸を元のままに保つ作用があります。そのため、神道では塩は忌みを祓うものとして扱っています。そのため、振り塩というのは、葬儀に行った際に霊園や葬儀場などから付いてくる魔や邪を家に入れないために行う儀式でした。しかし、仏教では、亡くなった方は仏であり、忌むべきものではないという考えから、振り塩はしなくてもよい、という宗派もあります。
死者の魂が、家に戻ってこないようにという意味での習慣は振り塩以外にも多くあります。例えば、仮門と呼ばれる習慣は、普段使う門とは異なる場所から家を出るという習慣です。また三回まわしと呼ばれる習慣は、棺を埋葬する際に三周棺をまわし方角が分からなくなるようにする作法です。もうひとつ現代にも残っているものとして、出棺の際に故人が使っていた茶碗を割ったり、座敷を掃いたり、カゴや臼を転がす、などという習慣がある場合もあります。また、火葬場に行く際に行きと帰りで違う道を使わなければならないという話を聞いたこともあるでしょう。ここで挙げた風習はどれも死者が生前住んでいた家に戻ってこないようにするという目的からきています。なぜなら火葬は鎌倉時代から始まったものの全てが火葬であったわけではなく、江戸時代では庶民の多くが土葬を行っていたためこういった風習が広がったのです。そしてそのとき葬儀の作法として広がった風習は現代でも息づいています。

友引

カレンダーなどでこの言葉を見たことのある人も多いと思います。
この言葉は六曜という考えから来ています。
これの起源については不明で、先勝、友引、先負、赤口、仏滅、大安の六種類があり、
明治時代以降に日本で使われるようになると、
その日が縁起が良いのか悪いのかという日にちそのものに対する占いとして利用されるようになりました。
先勝なら午前中は縁起が良い、などの時間に対する縁起物としてもともと作られたもので、
友引というのは本来、決着が着かない引き分けになるなどの意味を示していました。
しかし、友を引くというその文字の意味から、日本では友人を引き込むという意味で使われるようになりました。
吉事なら良し、凶事は避けるべし、という意味に変化していきました。
現在では火葬場が友人を引き込んでしまっては良くないという意味から休業日としているところが多いです。
しかし、これは本来の意味合いとは大分違うものになってしまっています。

六文銭

棺の中に、硬貨を入れておく風習です。
故人が死出の旅路に出る際に三途の川の渡し賃として支払えるよう、故人にお金を渡しておくという習慣です。
この習慣に合わせて、死に装束として服を左前にしておく習慣もあります。
この三途の川という発想は世界中に似たものがあります。
川の名前は違えども死者はあの世に行くときに川を越えていくという信仰は世界中で見られ、
中には東アジアの風習と同じように死者の副葬品として硬貨を入れておくことによって、
その渡し賃にするという話がヨーロッパにもあります。
古来より川は境目の象徴とされてきました。国の境であり、領土の境であり、川を越えれば習慣や文化が変わることもあります。東欧の民間伝承である吸血鬼が川を越えられないという習性を持っているのもそういった思想からでしょう。
川は境界線であり戻ることのできない分水嶺である。
こういった考えから、この世とあの世の境目として多くの地域の死出の旅路のモチーフとして用いられてきたのでしょう。

以上のように、葬儀の作法として現代でも残っている習慣の多くは江戸時代の習慣からきているものが多いです。
しかし、古来より日本の文化は様々な宗教の影響を受け、それを吸収してきました。
現代ではそういった作法について厳しくしているところは少ないかもしれません。
しかし、わたしたちの先祖が受け継いできた様々な文化があったということは知っておいても良いのではないでしょうか。

5.近代における葬儀の変化 明治~昭和

焼香

明治時代は日本の歴史上で重要な位置づけになっている時代です。
鎌倉時代より続いた武士による封建制度が終わり、
欧米に見られる現代的なシステムを導入していた激動の時代でもあります。

政治面から再び仏教から神道へ

宗教的な面で大きな変化として、廃仏毀釈が挙げられます。
廃仏毀釈というのは明治政府が出した宗教政策で、寺を信仰するのは止めようというというものです。
 鎌倉時代以前の日本の宗教は、神道、仏教、陰陽道、道教、その他の多くの宗教の影響を受けていましたが、
為政者である天皇家は神道を掲げていました。
神道と仏教の習合については、大変複雑なためここでは説明を避けます。
江戸時代もまた様々な宗教が混ざり合う時代でした。
しかし、江戸幕府は宗教統制政策として幕府は檀家制度を採用していました。
檀家制度というのは、キリシタン対策として江戸幕府が行ったものです。
内容としては、国民全員に自分の所属する寺を決めてもらうという登録システムでした。
この登録を済ましていない人間はキリシタンとして見なされるか、
もしくはなんらかの問題がある人間として認定されました。
この所属する寺のことを檀家寺、もしくは菩提寺と言います。
 しかし、時代が変わり明治になると200年以上続いたそのシステムが突然変更されることになりました。
為政者が徳川家から変わり、その宗教政策も変更されることになりました。
変わって為政者となった天皇家の宗教は神道であり、その変更のひとつとして廃仏毀釈が行われたのです。
結果としてそれまで奨励されていた仏教は一時的に衰退し、一説によると土葬が奨励されたため、
火葬の割合が一時的に落ち込んだという資料もあります。
 その後、欧米の文化の流入や衛生面の点からの見直しもあり、徐々に火葬の割合がふえていきました。
儀式や作法としての面では、長く親しまれてきた江戸の習慣が多く引き継がれていきました。

6.高度経済成長期から現代へ
ライフスタイルと共に変わっていく葬儀の形

焼香

今までの歴史と葬儀の関係を見てきてわかることとして、
葬儀の作法や儀礼というものは大きくその生活習慣や文化面での影響を受けていることがあります。
戦後の日本は歴史上でみてもとても大きいと言える生活習慣の変化を余儀なくしました。
生活の急速な欧米化、それまで土地に基づいて作られていたシステムが崩壊するなど、
それまでの習慣とは大きくかけ離れたものになりました。

高度経済成長期の激動と葬儀の変化

農業、商業、工業などの産業構造が変化し、仕事を求めて人口は都市部に流入しました。
集団就職や金の卵という言葉が使われ、集団就職という形で人口が大きく移動したのです。
結果としてそれまでの日本に一般的に見られた祖父母、父母、その子どもによる二世帯以上の家庭は少しずつ減っていきました。そして、新しい家族の形として核家族化が進んでいきました。
いまだ日本の歴史上にないほど人々はその居住地を変えていきました。
そして、地域の共同体としての感覚も少しずつ薄れていったのです。
 それまでは、葬儀というものは故人の遺族と地域の周辺住民によって行われてきました。
その背景としては檀家制度と人口移動の少ない国民性があったからです。
葬儀は地域の集会場や菩提寺で行われ、無償で地域の住民は労働力を提供しました。
近隣との普段からの付き合いなどがその背景にあり、
困ったときはお互い様という感覚が国民全体の共通感覚としてあったからです。
しかし、人口の大きな移動はそのシステムが立ち行かないようにするのに十分な変化をもたらしました。
隣人が誰なのかわからない。地域の行事などになにも参加してないため、集会所などが利用できない。
隣人との関係の希薄さはそういった問題を引き起こしました。
また、移動しても改めて菩提寺に登録することなどなく、
江戸時代には高い数値を示していた檀家制度も機能しなくなりつつあります。
現代では多くの人は菩提寺を持たず、中には実家の宗派を知らないという人も増えてきています。
そのため、かつて見られてきた地域の集会所や故人の自宅で葬儀を行い、
地域住民の協力によって葬儀を行うという風景は、特に都市部ではほとんど見られなくなってきました。

葬儀業者の台頭

そういった光景が減少していく反面、増加してきたのは葬儀業者でした。
葬儀業者は葬儀を行う場所を提供し、作法などを知る人間が少なくなっていくなか、
プロフェッショナルとして葬儀を執り行いました。交通の要点となる場所にはそういった業者の葬儀場が作られ、
多くの利用者がそういった場所を利用する世の中になっていきました。

葬儀形態の変化

時代の変化は葬儀場所やそれを執り行う人間だけでなく葬儀そのものも変えていきました。
かつて行われていた葬儀の形式は一般葬と呼ばれています。
一般葬では喪主と故人の遺族が葬式を執り行い、知人、友人、仕事の関係者などが参列者として訪れるのが一般的でした。
どれだけ多くの参列者が来てくれるのかが故人の生前の人徳を表し、
その人数が多ければ多いほど良いという風潮もありました。
しかし、現代ではこの形式から変化していきつつあります。
参列者がなく、喪主と遺族のみで葬式を執り行う家族葬が少しずつ一般的になってきています。
また段取りに関しても変化が起こりつつあります。
お通夜を行う、そして翌日には葬儀、告別式、出棺、火葬、拾骨と言う形が一般的でした。
しかし、お通夜を省略し、一日で行う一日葬や、直接火葬を行う直葬などの形式も社会的に認知されるようになりました。
その背景としては周辺住民の手助けなどがなくなったため、
葬式を行う遺族の負担が大きくなったこと、
かつては助け合いで行っていたためそこまで負担にならなかった葬儀の費用が葬儀業者を頼むことによって以前より高額になったことなどがあります。

小さくなっていく、葬儀、墓地

家族や地域共同体が小さくなっていくにつれて、当然葬儀の規模や墓地の規模も小さくなっていきます。都内ではお墓の一区画が500万円を超えることもあり、なかなかお墓を買うことができないという人も多くいます。
お墓の規模が小さくなり納骨堂という形で墓石を持たずに参拝できる形式をとるところも増えてきました。
また、特定の参拝対象を持たず、樹木葬や海洋葬など散骨の形式をとる人も少しずつ増えつつあります。
生活習慣が変われば葬儀の形も変わる。
これからの日本に合わせて新しい葬儀の形や新しい埋葬の形がどんどんと現れていくのかもしれません。

7.葬儀のトラブルに注意

変化をしていくということは、それだけ新しいものが出てくるということです。
新しいものが出てくるというのは一概に良いことだけではありません。
葬儀という儀式は人生で数えるくらいしか執り行うことはありません。
つまり一般の人は葬儀についてそこまで詳細な知識を持ち合わせていないのです。
多くの葬儀業者は適正な価格で適正なサービスを提供できるよう、
遺族の方たちに満足できるよう日々努力をしています。
しかし中にはそうではない業者もいます。

業者とのトラブル、親戚とのトラブル

顧客に知識がない。新しいサービスを次々と提供していく。
そういった状況で、人を騙し高額の請求を行ったり、
最初の契約の段階とはサービスが違うなどというトラブルが増えています。
葬儀を行う人間は親しい人を亡くし悲しみに打ちひしがれている状況です。
冷静な判断ができないそういった状況を狙う人間もいるということを忘れないでください。
また、新しい葬儀の形によるトラブルも起こり得ます。
例えば、家族葬を行った結果、家族葬という新しい葬儀の形を知らなかった親戚がなぜ自分を呼ばないのかと葬儀のあとで揉めごとになることもあります。

葬儀の本来の目的

本来葬儀と言うのは、故人を悼み、そしてその死を偲ぶことに目的があります。
そういったトラブルのせいで揉めごとに発展してしまうのは故人が一番のぞまぬところではないでしょうか。
葬儀について正しい知識をもち、滞りなく式を執り行う。
それが大きく葬儀が変化しつつある私たちに課せられた使命なのではないでしょうか。

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